青い空、白い雲
そこに舞い上がるカラフルな風船♪
みなさん、空見ていますか~
バルーンのお兄さん(おじさん)です!
あれから9年がたったんですね。
今日、荒浜に行きましたが、風景はもちろん変わりましたが、波の音は昔と変わらず、目をつぶれば、波音を聞きながら眠ったなぁと、思い出が蘇りました。
当時のことを忘れないためにも、当時の様子をブログでお話ししたいと思います。
そこで、5年前にブログを再度載せてみます!
以前に読んでいる方もいらっしゃると思いますが、その辺はご了承ください。
それでは~
2001.3.11震災
≪当時の状況≫
当時、仙台市若林区荒浜という沿岸部に私の実父、妻、長女(小5)、長男(小4)、次男(2歳)、三男(1歳)、次女(6か月)と私の計8人で住んでいました。
震災の半年前に11年勤めていたホテル業を退職し、地元の先輩の手伝いやバイトをしながら生活していました。恥ずかしながら無職で^^;
私の父は定年退職し、年金暮らしでしたが、とても元気で私たちの子供(孫)のめんどうをみて平穏に暮らしていました。その当時77歳で、バリバリ動く昭和のオヤジって感じだったです。
私の妻は、宮城県の北の方「加美町」の出身で、まだ生まれたばかりの娘がいたので、仕事も生む前に辞めて、子育て奮闘中の最中でした。
子供たちは創立130年以上になる児童数100名満たない程度の荒浜小学校(海から1キロ)に楽しく通っていました。
荒浜は仙台市と言っても、田舎で町全体が知り合いだらけのほっこりする子育て世代にはもってこいの町で、私も妻も子供たちも大好きな土地でした。
≪2011.3.10日中(津波発生の約26時間前)≫
私は荒浜小学校PTAの副会長をやっていました。PTAといっても学校関係だけの付き合いだけではなく、いろいろな組織の会合などに顔を出す機会があるんです。
私もPTAに入るまで知りませんでしたけどね。
『水資源』という組織がありまして(うる覚えです。間違っていたらごめんなさい。)その団体は何をするかというと、言葉の通り地域の水が関係する箇所を巡回し、水路のU字溝が破損しているから直そう!道路のわきにお花を植えようなどなど見て回り、それをまとめて行政に提出する団体でした。
この日が、震災前日の3月10日だったのです。
午後から荒浜地区の田んぼや用水路を確認しに数人で自転車に乗って3時間近くかけて巡回しました。
とても良い天気で田んぼにはハクチョウが数十羽いたり、夕日が眩しかったのを覚えています。
30年以上も荒浜に住んでいましたが、年配の方に合わせて自転車を漕いで、地元の風景をゆっくり見たのは初めてでした。まさか、こんなきれいな光景が地獄のようになるとは思ってもいませんでした。
≪2011.3.10夜(津波発生の約18時間前)≫
私も妻も前々からおじいちゃん(実父)に、ある事を言おうと思っていました。
それは、妻も3月中に仕事を見つけて私も定職に就いて働こうと伝えようと。
子供たち5人を寝かせて、茶の間に妻と私が正座をし「オヤジ、今後俺とママ(妻)は仕事を探して職に就くようになる。悪いんだけど、また昔のように(小学生の上の二人は小さいときにおじいちゃんがほぼ育てました。ちょっとした事情がありまして)チビ達のめんどうをみてほしいんだけど」と、お願いをしました。
オヤジは笑いしながら嬉しそうに「また孫の子守りか(笑) いがす、いがす、お前らの好きなようにやりなさい」と、言ってくれました。それが、まともに会話をした最後になりました。
【東日本大震災を忘れない②】
皆さんこんにちは&こんばんは!
バルーンアートの新しい未来を考える遠藤です。
今回のお題ですが、ちょっと長く続きそうなので、あきてきた方はスルーしてもらって構いませんからね!
この手の話題は、被災者に聞くのはちょっとなぁって、思われる方がいると思いますが、逆に聞いてもらうことによって、なんていったらいいのかな・・・ 上司のグチを聞いてもらう感覚に似ている感じ^^;
自分の気持ちを聞いてもらい、落ち着いていく感じですかね。でも、それはワタクシ遠藤博に限ってかもしれませんが。。。
ここまで、綴っていて本当に申し訳ございませんが、所々記憶が飛んでいまして、つじつまが合わないことがあるかと思います。そこのところ許して下さいね。
さて、昨日の続きになりますが、前日までお話ししました。震災当日の話にはなりますが、さらりと荒浜の自宅についてお話ししたいと思います。
・自宅は海岸から直線で500m位
・自宅の場所は『新町』と言って、約35年前から新興住宅街で宅地が始まる。
また、近くには公園がありとても住みやすい家でした。
今では元の自宅から海の方を見るとくっきり海が見えますが、当時は松林が一面にあり海なんか見えませんでした。
それでは、当日の様子を書いてみたいと思います。
≪2011.3.11当日(津波発生まで数時間≫
朝、目を覚ますと昨日長女に言われたことを思い出しました。それは
長女:「パパ!定義山の油揚げ、こないだ買ってきたけど、私食べてなかったよ。私も食べたい!いつ定義山に行くの?」
私:「そうだな、明後日は土曜日だしその時にみんなと食べに行こうか」
長女:「わかった、約束ね」
3.11は金曜日でした。明日の土曜日は定義山に行く予定だったのです。
だったら今日のうちに、就活のスーツを新調しようと考えていました。
ところが、昨日まで元気がよかった2歳11か月の次男が38度位の熱が出て、妻が朝一で病院に連れて行く事になったのです。
私はというと、まだ下に1歳の男の子と6か月の娘がいましたので、二人の子守りしていました。
10時頃、二人の子供たちを2階の部屋に寝かし、寝室でネットの仕事をしていた時です。
寝室にある内線電話が鳴りました。(あぁ、オヤジだ!なんだろな!)
オヤジ電話口の声:「パパ、今から床屋に行ってくるよ。」
私:「ああ、いってらっしゃい・・・。(不機嫌そうに)」
これが、私の父との最後のやり取りでした。今でも後悔しています。
なんであの時、自分は機嫌悪そうに応えたのか。たまたま、自分の予定がズレて少し苛立っていたのは確かです。でも、、、、
それから間もなく、妻が帰ってきました。キョトンとした顔で玄関に入ってきました。
私:「どうだった?」
妻:「先生は何ともないって言っていた。なんだったんだろう?熱も急に下がって、また元気になっているよ。」
妻:「あっ!そういえば、今日スーツ階に行くって、パパ言っていたけど、もうお昼だし明日定義山に行くときに寄ったらどう?」
私:「うーん、オヤジも床屋行ってかれこれ2時間近く経っているから、パチンコに行ったっぽいな。子守り要員がいないと大変だから、明日にしようか。」
この瞬間が運命の分かれ目だったのかもしれません。普通の日常会話が明暗を分けたのです。
今でも長女と次男に助けられたと思っています。もし『定義山』『発熱』というキーワードがなかったら、私はあの地震の時間に自宅にいなかったのじゃないかと!
戯言?オカルト?と思うかもしれませんが、不思議と私を自宅から出せないようにされていたように感じます。
もし、私がいなかったらと思うとゾクッと今でもなります。
そして、この3時間後にあの大震災が起こったのです。
この続き・・・まだ書いていなかったです(^^;
今月中に書きたいと思います。
それでは、皆さんご一緒に「青い空に飛んでけぇ~」
ありがとうございました。
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